労働者目線あるいは経営者の責任もしくは素質
前回は、経営者目線に関して書いた。しかしながら、私が本当に書きたかったのは、労働者目線についてである。
では、なぜ経営者目線を書いたかと言えば、それはある種の批判をかわすためである。いたく、労働者が自分の権利や考えを主張するとこのような批判がよせられるのを目にする
甘えるな、わがままを言うな、義務を果たさず権利を主張するなという
そもそも考えること自体が悪かのような封殺を受ける
そこで、先に経営者目線に触れることで、私はちゃんと経営者についてわかってますよと主張する必要性があると考えたからだ。
そこで、経営者目線について論じた。しかし、労働者に経営者目線が求められるのならば、経営者にも同じように労働者目線をもってもらいたいものである。もっと過激なことをいうのであれば
労働者目線を持たずして経営者になるなかれだ。
我々、労働者は経営者に対して様々な要求をする。それは大なるものからいえば給料をあげろや、福利厚生の充実や、小さなもので言えば部署の配置換えや、労働環境の充実だろう。
しかしながら、何故労働者は要求するのだろうか。経営者からしたら義務を果たさず権利を主張するなということで、売り上げをあげてから主張しろと言われるのがオチだ
だが、労働者は時給に対しての対価以上を求める。これは単なるわがままであろうか?しかし、ここをわがままとして切り捨ててしまう経営者ははっきしいって労働者目線をもっていない
多くの場合、労働者は企業に対しての8時間もの時間を費やして労働に勤しむ
1日が24時間であるから8時間といえば3分の1だ。
そして、日中の8時間と言えばとても貴重で大事な時間であると言える。およそ、8時間もあればしたいことは何だってできるのだ。
その貴重な時間を捧げているということは、その人生を捧げているのに等しい行為だ。
単に時間給では計れない価値を企業に提供していることにある。
人生を捧げていると言えば少々大げさに聞こえるかもしれないが、例えば20歳から30歳まで10年企業に勤めたとしよう。
30歳となって、その人が他のことを始めようとしても多くの場合不可能である
未経験の三十路の中途をあえて採用する物好きなど皆無に等しいからだ。
つまり、実際に人生全てを費やして働いていないにしろ、事実は人生を対価として払っていることに等しいのだ。
だから、労働者は経営者に対して、わがもままをいう筋合いがあるし
経営者は雇ったものの人生まるごとを面倒をみる責務がある。むしろ、この責務が果たせないという人間は経営者をなのるべきではないだろう。
この責務を果たせない経営者は労働者に対して過重な労働を強いることは許されないと私は考える
例えば、過労死で亡くなった労働者の残された家族についても経営者は面倒をみるべきだ。無論業務上でのトラブルでなくなった際も同上だ。
経営者が労働者を雇う以上はその家族の面倒までみるという強い意識が必要だ。
かつて、私は大学生の時にどうして武士は討ち死にをするのかというのに疑問をもって調べたことがる。
主君の対して死ぬほどの忠誠を誓うことに何の意味があるのが気になったからだ。
そこで、調べてわかったことであるが、どうも当時は当人が死んでもその忠節をたたえその子孫が優遇を受けるということがわかった。
当時は、いつ死ぬともわからない時代であったから、大名と家臣の間でこういったとりきめというが不文律があったからである。
自分が死んでも子供が優遇されるということがわかっているのであれば、まさしく後顧の憂いなく戦場に赴くことができるということらしい
現代の経営者も安心して働ける環境というものを作っておしいが、どうもその意識は当人一代だけに限られているようだ。
しかしながら、我々労働者が一番気にかけているのは、自分の未来であり、家族である。
早く多くの経営者がそのことにきづき労働者目線を念頭におくことを切に願っている