働いて二週間で会社潰れた

歴史本や小説や映画などの感想が書ければなと思います。

三好之長の生き様をみよ②永生の錯乱

澄元に従って京都へとやってきた之長はそこで管領細川政元に気に入られていたようで、摂津の守護代へと任命された。

しかし、この之長の出世は他の細川家の重臣である薬師寺、香西、安富氏らといった諸将から反感をかうことにつながる。

もともと、上の諸将は1人目の養子澄之の家臣であり、長之の出世は2人目の養子澄元の家督継承へと繋がることで、反目しあっていたのである。

それに加え管領細川政元は奇行が目立ち、従来の家臣は疑心暗鬼に陥っていった。この時に細川家では、家督争いに加えて主君政元の乱心と気が休まる日々はなかったと推測できる。

そんななかで、ついに重臣である香西元長が謀反を起こし、もはや従来の家臣では信用できぬと政元は新参者である之長を重用しはじめそれがまた1人目の養子澄之派の危機感を募らせることに繋がる。

 

さて、そんな緊迫状態が続く中についに事件は起きた。

入浴中の管領政元を澄之派が暗殺することに成功したのである。世に言う永生の錯乱である。

この時、澄元、之長らは京都におり、澄之派から屋敷が襲撃されるが、辛くもこれを退け近江へと退くことに成功した。

さて、乱を起こした澄之は、足利義澄から正式に細川家の家督に任じられるがその天下は三人目の養子である細川高国により阻止されることとなった。

養父と言えども父親殺しというのは、周囲の反感を大いに買ったようで、将軍に認められたといえども、世間はそれを批判的な目でみたのだ。

三人目の養子細川高国は2人目の養子澄元を旗頭に反澄之派を結成した

この動きに近江にいた之長は本国阿波にいないことが災いしてか、結果的に乗り遅れる形になってしまったが、徳政一揆頭目であった経験を生かして、甲賀の野武士で軍団を組織し、なんとか、京都へ澄之の先陣として馳せ参じることができたのである。

その際に澄之の屋敷を攻め落とし、ついには澄之を自害せしめ。この戦の功績で戦訓第1として認められたのだった。

 

そして、澄之が亡くなったことで細川家は長之の主君である澄元が継承することとなったのである。

 

6月23日にに政元が亡くなって、澄之が亡くなったのは8月1日その治世はおよそ1ヶ月と言う早さであつけなく幕をとじたのであった。

 

この時代に畿内の主は政元→澄之→澄元と目まぐるしく変化することになったのである